「わからない」を楽しむということ
実際のところはどうだったのか、正しい記憶=事実というものに沿っているのかはわからないのだけど、私がいま本屋をやっていることのスタート地点を指し示すならば、それはおそらくディケンズの『オリヴァー・ツイスト』にある。
朧げな記憶によれば、それは小5とか小6とか、あるいは中1とかの時代の出来事となっている。母と一緒に千葉駅の映画館(たぶん京成ローザ)に行き、『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』を観た。自分からこの映画が観たいと言って、しかも千葉駅まで電車に乗って映画館まで行ったのは、きっと初めてだったはずだ。テレビで放映されていたハガレンのアニメを(歯抜けになりながらも)最後まで観た私は、得体の知れないつまり言語化不能ななにかを感じ、その勢いのままに映画も観たいと言い出した、のだろう。そして映画もまた私の中になにかを残した。作品が伝えようとしていたことの数パーセントも理解していなかっただろう。この映画のプロットが史実を下敷にしていることもそのときは知らなかったのではないか(ヒトラーが実在人物であることくらいは知っていたかもしれない)。しかし私はほとんどなにもわからないなりになにかを感じとり、高揚していた。
その高揚が向かった先が『オリヴァー・ツイスト』だった。映画館をあとにした私と母はその足で本屋に行ったらしい(と私の記憶が語る)。私はそこで映画素材が使われた装丁になっている『オリヴァー・ツイスト』の文庫(これまた不確かな記憶だが角川文庫だ)を目にする。高揚している私はそれを買ってもらった。ハガレンの映画を観て「映画すげえ」となった私は、映画化原作!というような文言が書かれている本を見て、調子に乗ったのだろう。ハガレン映画の舞台は現実世界の20世紀ドイツだった。『オリヴァー・ツイスト』は19世紀中頃のロンドンだ。映画(になっている)ということと、外国が舞台であるということ、この2点だけで私はこれを買ってもらったということになる。当然、読んでみたところでなにもわからなかったのだろう。結局その本は、英文学専攻の大学生となって(からさらに数年が経ってようやく思い出されて)読まれることになる。そしてそのときにもわからないことだらけだった。
どうやら私には「わからない(がなにかすげえものなんじゃねえか?と根拠なく思う)」ものに惹かれる性質があるらしい。オーウェルの『一九八四年』も初読ではよくわからず放置され、そのことが思い出されたことによって修論のテーマとして選択された。サッカー選手になる目標を捨てて路頭に迷い(そのうえ色々あって)、なんとなくで進んだ英文学部という選択・判断もルーツを辿れば『オリヴァー・ツイスト』があるのだろう。サッカーに熱中していたのも「うまくできない=わからない」ことがたくさんあったからかもしれない。そしていま、私は本屋となり、一般的な読書量からしたらそれなりに多くの本を相手にしていて、しかしそれらを「わからん」と思いながら読んでいる。わかる、わかるぞ〜!と思える本などほとんどない。だから中身も覚えられない。再読するとびっくりする。読んだ記憶がないことばかり書かれているのだから。
私の記憶は本当にあてにならないので、ここまで書くために映画と本の情報を整理してみたらやはり色々と怪しいことがわかってきた。ハガレンの映画は2005年の夏に公開され、『オリヴァー・ツイスト』の映画と角川文庫は2006年の1月に公開&刊行となっていた。本当に、ハガレンのすぐあとにオリヴァーなのだろうか。そのあいだに数ヶ月あるのではないか。しかしハガレンは相当な人気だった気もするし、ロングランしていたのかもしれない。となると私はそれなりに熱意を持ってテレビアニメを観ていたはずのハガレンの映画を、公開から半年近く経ってからようやく観たことになる。しかし当時の情報のスピード、あるいは人類の生活スピードはそのくらいのサイクルで動いていたのではないか。本当のところはもうわからない。わからないが、私はこの「物語」を気に入っている。数ページ読んで放置した外国の物語が、私の物語=人生を駆動しているということ。それはとても幸福なことなのだろう。
2025年11月18日(火)
人間ドックのため昨夜から絶食。検査は滞りなく進み、とりあえず異常なし。高額な金を払ってリアルタイム胃腸動画を観れるアトラクションだと思ってるので、今回はそれができず不満足。検査技師のおじいちゃんは楽しそうだった。ずるい。私も観たい。
夕方から今宵もフリーレン。魔法は探し求めているときがいちばん楽しいというフリーレンのあと、広告動画で「Google検索でわからないこともすぐにわかる!」みたいな人工知能アピールが流れる。昼に行った定食屋のテレビではワイドショーが流れており、高市発言を受けて渡航自粛を発令した中国政府の対応について、日本滞在中の中国人にインタビューするというものだった。クソだった。日本のいまの振る舞い、そして過去にやらかしてきた多くの加害行為を「なかったこと」にする、あるいは「見ないふり」をすることによって、偽りの安心を得たいだけのVTRだった。フリーレンも過去をまなざし、そのことで現在と未来をまなざす物語だ。大人気作品となっているのならなぜ、こうも現実逃避をするのが日本人のデフォルトとなっているのだろうか。
生成AIなどを活用することで「わからない」をすぐに解決してしまうこと。明快な答えなど出せない、永遠に向き合い続ける必要がある問題から目を逸らすこと。インターネットを検索すれば簡単に答えややり方が見つかってしまう(どころかその先にあるはずの「実践」までAIがやってくれる)世界を、私たちは生きている。その「便利さ」に抗いきれない己の欲求の奥底にあるのは、「わからない」への恐怖なのではないか。うまくできない自分を叱責する他者および世界、そしてそれらを内面化した己の声が、私たちを「すぐに」「正解を出す」ように仕向けている。わからないままでいること、明快な正解を出せないこと。その状態にいかに向き合うかが、いま、あらためて、私たちに問いかけられている気がしている。
しかし怖いものは怖い。間違えたら怒られる、答えがわからず黙っていても怒られる。その恐怖はインターネットおよびSNS(の性質)によって増幅され続けている。だったらなにも考えないほうがいい。誰かに答えを考えてもらって、解答もしてもらって、実践もしてもらおう。PDCAのすべてを任せてしまおう。生身の人間にそれをやってもらうのはコストもかかるから、AIにやってもらえばいい。
あなたはそんなことは考えていないかもしれない。でも、自作の下手な絵/グラフ/まとめ/チラシ/文章……etc.を使うくらいならAIに生成してもらうほうがいい、そのほうがキレイだし、まとまってるし、誤字もない。なによりも速いから。そう思ってしまう自分がいることは否定できないだろう。私はその先にある世界が怖い。わからない、うまくできない、を許すことができない世界。
そのような世界が生じつつあるのだから、本が読まれなくなっていくのも当然なのだろう。本を読んでもたいていは理解できない。理解できたつもりで誤読している。そして理解できていようとなかろうと、時間がかかる。時間をかけて本を読んだ、しかしなにもわからなかった。それがどれだけ贅沢なことなのかを、私たちはどんどん忘れていく。
文学はその贅沢さの筆頭だと思う。文学を読んで「わかる」ことは滅多にない。特に外国文学(さらに時代も違うもの)は、舞台設定も登場人物の行動や心理も理解できないまま物語が終わってしまうことがある。訳者あとがきや解説を読んでも、まだピンとこない。しかしその読書は、本当に意味がないものなのか。
2026年1月13日(火)
志津。家計簿の場所を訊いてきたおばあちゃんを案内し、レジ打ちする。家計簿をつけて55年になるんだ、ということを誇らしげに教えてくれる。数字は絶対に間違えない、いつだってぴったり合わせることができるのだ、とも。なんだかとてもうれしくなってしまった。プロフェッショナル、職人じゃないですか。と返した。おばあちゃんからの反応は薄かったから、ちゃんと聞いていなかったのかもしれない。他人からの評価など不要、ということか。かっこよすぎる。家計簿といっしょに10枚入りのクリアファイルを2セット買っていったのだけど、それもおばあちゃんは「透明のあの、なんだっけ、大事なものを挟むやつ」というような説明をしていて、私はそれが最初なんのことかまったくわからなかったのだけど、おそらく家計簿のプロ(現役55年目)であるおばあちゃんにとってはそのクリアファイルを使って整理するあれこれは「大事なもの」なのだろう。私にとって、たとえば領収書なんぞは「確定申告にだけ必要なもの=面倒な存在」でしかない。なんだかよくわからないが感慨。エレベーターの場所を教えてからバイバイした。この駅ビルのことに関しては私のほうがプロ。
The missionaries, sent on a heavenly errand, had sailed by their lovely shores, and had abandoned them to their idols of wood and stone. How interesting the circumstances under which they were discovered!
その伝道者たちは天の使命を担わされ、かれらの素晴らしき岸辺から漕ぎ出したのち、木と石でできたかれらの神々におのれの運命を任せてしまっていた。かれらが発見されたときの状況は興味深かったよ!
宣言通りに『タイピー』の素人翻訳を続けることができているため、ずっと気になっていたローレンス・ヴェヌティ『翻訳のスキャンダル』(フィルムアート社)を読み始める。
世界の覇権言語である英語の特権性を揺るがすこと、あるいは外国のテキストを自国語に翻訳することによって失われる異質性、といったことが根底にあるテーマのひとつらしい。「読みやすい翻訳」を我々は高評価するけども、その読みやすさの理由が「異質なものの排除=訳出せずにスルーしたり、日本文化内部のものに変換してしまったこと」にある場合、そこにある種の侵害が生じているとも言える。特に、異質なものの排除がより強い立場からなされた場合、たとえばカリブ海のテキストを英語に翻訳するとか、東南アジアのテキストを日本語に翻訳するとか、その場合はまさに「植民地主義」的な翻訳となりうるということだ。逆に言うと、読みにくい訳文があらわれたとき、そこには我々が真摯に向き合い理解しようと努めるべきなにかがある、と考えればよいということになる。小説に限らず翻訳本が「わからない」ことはよくあるが、それは「自分にインストールされていないことと向き合っている」証であり、落ち込んだり苛立ったりしなくてよいということでもある。なるほど、これは元気になれる本だ。
わからない、うまくできない。これらを自分のものとして取り戻すために、つまり面白がるために、年始からメルヴィルの『タイピー』を翻訳するプロジェクトを始めてみた。まったく終わりは見えないし、訳文も間違っている箇所だらけだろう。それでも私はAIによる自動翻訳は使わないで、英辞郎 on the WEB(無料版)だけで乗り切ろうとしている(実際にはごく稀にGoogle翻訳を使うが、熟語単位でのみ使用し、文章まるごとを翻訳機にかけることはしないと決めている)。プロの翻訳家が訳した本を読んでも理解できないかもしれない古典を、圧倒的に英語力が足りないままで翻訳して自分で読んで得られる未来はなんなのか。かつて小屋で本屋を始めた私は、朧げながらその未来を知っている。その小屋だって素人の状態で建て始めたものだったのだ。1年半かけて完成したそれは、自立しているのが不思議なくらい寸法はバラバラで、いたるところに穴もあいていた。それでも小屋は、気がつくと建って/立っていた。下手くそにも程がある小屋はもう解体してしまったが、これからもずっと私の支えとなるだろう。
わからないでいること。うまくできないでいること。その状態のままでいること。そのためには練習が必要だ。そして不完全な自分でいることを許される、安心な場が。本屋はその場になりうる存在だろう。わからないことを楽しめる場所、そのなかで時折あらわれる「わかった(かも)」を楽しめる場所、それが本屋の本懐なのではないか。本屋lighthouseはおそらく『オリヴァー・ツイスト』という文学作品から始まった。だからここの本質、あるいは奥底、または内奥、そこには文学がある。
わからないのはそれが「他者」だからだ。わからないを楽しみ、わからないに駆動されよう。すなわちそれは他者とともに生きるということだ。そして私たちは、互いにわからないままで一緒にいられる。そのことはもう証明済みだ。ならば実践あるのみ。
ということで、読書会を始めます。「文学作品をわからないわからない言いながら読む会」と命名しました、いま。詳細はこちら。と言いつつ、実質的な詳細はこの記事になるのかもしれない。以下はあわせて読んでもらうといいかもしれない記事。だいたい同じことを書いている気がする。
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