「now/here」(いま/ここ)ではない世界を想像/創造するための、具合が悪い日々

映画『急に具合が悪くなる』を観て、『プシコ ナウティカ』を読んで、本屋として考えること
本屋lighthouse 2026.07.18
誰でも

バザーリアは言う。「精神疾患は存在している。けれどもそれが何なのかは誰も知らない。問題は精神病院の中にあると人は言うが、それはとりわけ外の問題なのだ。学校や仕事、家族が、人々のなかでより弱い者たちを周縁化する。ある者は刑務所に収容され、また別の者は精神病院に収容されるというわけである」[Pivetta 2012: 153]。(p.117)

松嶋健『プシコ ナウティカ』(世界思想社)

病者を治すのではなく、社会を治すのである。それも、精神科医が精神病院で病者を治すのではなく、社会が自らを治すのである。精神医療にたずさわる者は、「精神医療とは何か」「精神医学とは何か」と問い、社会から委ねられた自分たちの役割を明らかにすることで、社会が自己の矛盾と向き合い、社会が自らを治そうとするための突破口たらんとするのである。(p.120)

同上
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ここのところ、書店界隈は「転売」の話題で持ちきりだ。いや、振り回されているというほうが正確だろう。もうずっと出版業界は「斜陽」であり続けている。システムの要である取次会社が撤退の可能性を自ら言い出すレベルには切羽詰まっている。その流れの中で、いかにして生き残るかの試行錯誤が繰り返され、そのうちのひとつが「書籍や雑誌に特典をつけて販売する」だったということだ。しかしそこに集まったのは、いや殺到したのは、高額転売を目的とした人たちだった。確かにたくさん売れはする。売れはするけど、本当にこれでいいのか、という問いは書店現場の誰もが抱いたのではないだろうか。もちろん、売上がとれればなんでもいい、むしろ転売屋をうまくあしらいながら売上を伸ばす方法を考えるのが賢い人間というものだ、と考え実践している人もいるだろう。なぜなら私たちは生き残らなければならないのだから。どんな手を使ってでも、書店は、出版業界は、本は、生き残らなければならないのだ。

どんな手を使ってでも生き残らなければならないのは、転売目的で買い占めをしている人も同じだ。おそらくその多くが生活苦を理由に転売に励んでいる。転売というと外国人という差別ど真ん中のイメージが流布されているが、確かに外国人は転売に励んでいる。なぜなら日本政府ならびに日本社会が作り維持しているあらゆる制度=システムが、外国籍保持者として生きるもののの生活水準を上げないようにしているからだ。そんなシステム=環境がまかり通っているのだから、自国民だって生活が苦しい(だから転売屋の多くは日本人だ)。国家権力が規定する他者(つまり死んでもいい、あるいは生きるのであれば「国のために有用であれ」とされる存在)は、残念ながら固定されていない。いつでも誰もが「他者」とされ、切り捨てられる。その思想が根底にある社会において、我々は例外なく苦しむことになる。具合が悪いのは世界のほうだ。

ゆえに、裕福な暮らしをしているように見える者ですら苦しんでいる。転売をゲームのように行なっている者も一定数いるだろう。どれだけ多くの金額を稼げるか、あるいは高利益率を叩き出せるか、それらが最上の価値基準となる世界にかれらは生きている。つまり資本主義で、転売をクソ喰らえと思っている私も残念ながらそのゲーム=資本主義の中を生きている。生かされている。生きていくためには本を売らなくてはならない。本を売って、収入を得て、そのためにはなにが必要なのだろうか、良書や旬の本を見逃さないように素早く動く、在庫切れがないように丁寧に管理する、なるべく高い利益率で仕入れる、特典がついていれば頼む、サイン本があれば頼む、エトセトラエトセトラ……。

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本屋が閉店するという話を耳にしたとき、どこかホッとしている自分がいる。私は生き延びた。そしてあのお店がなくなったぶん、自分のお店の売上が増えるかもしれない。そんなことを考えてしまう。結局のところ私がやっていることは限られたパイの奪い合いでしかなく(仮に出版業界全体が回復したとして、出版以外の業界すべてから奪っているだけなのではないか?)、その総量を増やしたり、そもそも奪い合う必要もなければ所有=獲得する必要もないようなシステムを構築するなんてことは不可能で、自分が生き残るためには「自分を殺しにくる者」を殺すしかないのだ。さもなくば、自分が死ぬだけなのだから。

「どうしてその二択なんですか?」と映画『急に具合が悪くなる』は問うてきた。自分が死ぬか、自分を殺すものを殺して生き延びるか。その二択は、最終的には「みんな死ぬ」に辿り着くほかない。なぜならその問いを突きつけてくるシステム=資本主義は、自分が生きるために他者を搾取し続けることを要求するからで、その繰り返しの果てにあるのは「搾取できる他者の消滅」だ。搾取可能な他者を失った〈私〉はいずれ枯れ果てることになる。だからそのシステムをどうにかしなくてはならない。

劇中、真理とマリー=ルーがホワイトボードを使って資本主義の仕組みについて考える場面がある。細かい部分は忘れてしまったので間違いがあるかもしれないが、中心の円として〈私〉または〈資本主義〉が置かれる。資本主義システムの中で生きる私は、生き延びるために〈他者〉を必要とする。〈他者〉は実在の人間のみを指すのではなく、「利用可能なもの」や「必要な素材」といった概念のことを指している。たとえば「労働(力)」は、自分が労働者として過ごすことでもあるし、誰かほかの人に働いてもらうことでもある(いずれにせよそこでは「時間」「余暇」「体力」「健康」などなどが使われており、それらも〈他者〉である)。ではその労働(力)はどこから調達するのか。自分、知人、従業員……と少しずつその円は大きくなっていく。日本人、(日本在住の)外国籍保持者、(海外在住の)外国人……のような円も同様に生じていく。あるいは健常者、(軽度の)障害者、(重度の)障害者……という円も。そして人間、自然、機械……という円もあるだろう。資本主義の価値基準のひとつである「たくさん利益を出す」を追求するならば、自ずとその円も大きくなっていく。利用できる存在は利用していく、利用可能なものがなくなればまた別の存在や場所へ、その繰り返しによって〈私〉は大きくなっていく。〈資本主義〉も同様に。

当然、その繰り返しには限界がある。限界が来ないように回復を待つ手もあるだろう。まさに労働者としての私たちが「仕事の準備」としてわずかな休日を過ごしてしまうのが当たり前になっているのは、休日=回復が「資本主義と一体化した私」のために存在してしまっていることの証だ。そして回復が間に合わない場合、仕事に支障が出る。仕事に支障をきたす労働者は不良品として扱われ、交換される。元気な者を、効率的で生産的で、つまり優秀な労働者を、〈資本主義〉は求める。〈私〉もまたそれを求めるため、回復できない自分を、優秀であれない自分を、価値の低い存在として認識する。

どう考えてもおかしいのだ。私たちはそのおかしさに気がついている。しかしシステム=環境=世界を変えることなど不可能だと、私たちは思っている。なぜならすでに、「いま/ここ」(now/here)を生き延びるだけで精一杯だからだ。だけどそれは(真理がボードに書いたように)資本主義のシステムそのものが駆動する原理でもある。資本主義は「いま/ここ」(now/here)のことしか考えていない(考えられないようにさせる)。だから利用可能な他者を搾取し、そうすることで自らを拡大させながら痩せ衰えていくという矛盾を生きる。外部の存在である他者を搾取していくことは、自らが所有する存在=領土を拡大することであり、つまり「いま/ここ」(now/here)を拡大することと同義となる。しかしそのようにして生き延びていった先にあるのは、なにかが生まれたり育ったりすることのない枯れ果てた土地であり、枯れ果てた土地と一体化した〈資本主義=私〉もまた枯渇する。ゆえにまた外部を求め……その行き着く先は「nowhere」だ。実在しない場所、すなわち存在の消滅。

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しかし「nowhere」(どこにもない場所)はユートピアの原義でもある。どこにもない場所であるユートピアには辿り着けない。しかし、それを追い求めているときにだけ、どこかにそれは存在し続ける。そのどこかとは、「now/here」(いま/ここ)ではない場所のことだ。真理は言う。「不可能なものは不可能です。でも、可能になるまでは、です」と。「now/here」(いま/ここ)を支配する資本主義というシステム、そのシステムと一体化してしまった〈私〉が歩み続けている「nowhere」(存在の消滅)へと至る道を、「now/here」(いま/ここ)ではない場所にあるはずのユートピアへと至る道として、塗り替えていく。それは可能なのだろうか。可能である、と考えて歩み続けているときにだけ、その世界はどこかに存在し続ける。

(これは劇中での重要キーワード「ユマニチュード」の軸にあるのが、目の前の相手がいまなにを考え欲しているかを考えることにあることとも対になっているだろう。同じ「now/here」(いま/ここ)でも、資本主義が求めるそれとユマニチュードが求めるそれは別物なのだ。唯一絶対かつ不変/不偏の正解など存在しないことを前提とするユートピア思想は、ユマニチュードの思想にこそ共鳴する)

自分が死ぬか、自分を殺すものを殺して生き延びるか。この二択から離れなくてはならない。それは資本主義の外に出るということではないのだろう。システムの外に出ることなどできないのだ。私たちはその中で生きるほかない。じゃあどのように?というのが問いとなる。真理たちが話していたように、「中と外をごちゃ混ぜにする」ことが必要なのかもしれない。私には答えなどわからない。わかるはずがない。だからこそ、もがく。やってみる。

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資本主義システムにおける他者を「外」と定義することも可能なはずだ。であるならば、〈私〉と〈他者〉の境界をごちゃ混ぜにするという考え方が生まれてくる。たとえば日本人と外国人、あるいは健常者と障害者。中と外、普通である私たちと普通ではないかれら、という認識には数え切れないほどのバリエーションがある。働ける者と働けない者。有用な存在と無能な存在。使いものにならない存在として放り出されているが、搾取可能な他者が枯渇したときに「有用であるならば」という条件付きで迎え入れられる者たちとしての外=他者を、中に入れる。いや、違う。「入れる/入れない」という認識の枠組みがあること自体が間違っている。「入れる/入れない」という判断や行為をする存在としての〈中=私〉がいる時点で間違っている。

ジェンティリーニ:ああ、でもスタッフはいないし、障害者もある意味ではいないんだ。いるのはメンバーであって、メンバー間の相互補完性が大切なんだよ。誰かができないことは、他の誰かが助けることができ、その人ができないことについては、また別の誰かが助けてあげられるという具合にね。ケアをする人と、ケアを受ける人という非対称的で一方向的な関係ではないんだ。だって自然はそういうふうにはできていないからね。(p.260)

同上

劇中ではマッサージが象徴的な行為として描き出されている。真理とマリー=ルーはお互いの身体をほぐし合う。真理の指導によって、介護施設ではアクティビティの一環としてのマッサージが利用者である認知症患者とスタッフの垣根なく行なわれるようになる。特に、施設内で開催した演劇の最中にアクシデント的に生じてしまったマッサージの場面は、この映画のクライマックスのひとつに数えていいだろう。「中と外をごちゃ混ぜにする」の実践がそこにはあった。演劇の最中なのに、観客であったはずのかれらは舞台の景色の中に入り込み、スタッフと利用者の境なくマッサージをするいつものアクティビティを行なっていたのだ。誰の身体かもわからない目の前にある手や足を揉み、自分の手や足は誰かもわからない手によって揉まれている。観客(客席)と演者(舞台)、利用者とスタッフ、私と他者、といった中と外の境界が失われていく。それは感動的で、しかし同時にひどく滑稽で、どうしてこんなことになってしまったのか、そこにいる誰ひとりとしてわからなかったであろう光景だ。

マッサージはされたら気持ちがいい。だからしてもらいたくなる。ぐにゃぐにゃに絡まり合ったジャングルジムのような見た目になる「中と外がごちゃ混ぜのマッサージ」は、その欲求をうまく刺激し利用する。目の前に誰かの足がある。それを揉むと自分の足が誰かに揉まれることになる。気持ちがいい。自分が揉む手足の持ち主が誰かなんてものはどうでもよくなる。自分の手足を揉む者が誰かなんてものもどうでもよくなる。そもそも、他者の身体を揉んだとき、その身体によって自分の手も揉み返されている。だからマッサージは「する」ほうも気持ちがいい。つまりマッサージはするのもされるのも気持ちがいい。それを知っている〈私〉は、自発的にそれをする。舞台に上がり演者になる、マッサージをする。そのとき〈私〉が超えた境界線は“意図をもって「わざと」乗り越えるような境界線ではなく、気がついたらすでに跨ぎ越してしまっているような境界線”(p.286)となる。「入れる/入れない」という枠組みは忘れ去られ、気がついたら「入っている」。主/客の関係性もなくなる。そこには資本主義ではないなにかと一体化した〈私〉がいるのではないか。

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あるいはもっとラディカルなことをやってみる。資本主義というシステム=世界にとことん抵抗してみる。本が売れなくてもやっていける本屋は実現可能だろうか。その前段階として、本が売れないことを「悪いこと」として認識するのをやめてみるのはどうだろうか。ようするに、たくさん稼ぐ=優秀という認識を否定するということだ。売上が低くてもいい、本屋が続いてさえいれば。現状の社会では、この試みがうまくいかないことは目に見えている。お金を稼がずに生きていけるというイメージは一切湧かないし、そのための具体的な方策も思いついたところですぐに行き止まりになる。でもだからといって「できない」と確定したわけでもない。屁理屈だということはわかっている。しかし屁理屈でいいのだ。誰もまだ辿り着いていない場所を目指すこと自体が屁理屈みたいなものなのだから。

「現行の社会の論理をうまく機能させないようにする」こと。ここには、便利で、スムーズで、うまくいくシステムをよしとする、「健康な者たちの社会」に対する強烈なアンチテーゼがある。そこでバザーリアが問うているのは、「健康な者たちははたして本当に生きているのか」という問いである。

 システムを一旦、機能不全に陥らせたところから、自らの感覚的自覚と効力感にもとづいて、別の関係性を組み上げていくことは、本当に「生きる」ための一つの技法であるといえるだろう。それは実は、便利でうまくいくシステムが結果的にもたらすカタストロフィを事前に回避する一種の知恵ではないだろうか。システムの一部となって機能することを拒否する狂気とか病気といったものを、こうした「こわれものの哲学」の系譜に位置づけることができるのだとすると、それはまさに、現在流通しているものとは異なった価値やスタイルにもとづく別の生への入口だといえるだろう。(p.433-434)

同上

「資本主義というシステムに適応して生きている者たちははたして本当に生きているのか」と問いかけてみよう。本をたくさん売るために、お金をたくさん稼ぐために、利益率の高いものを効率よく、他者を出し抜きながら売っていく。それができる者が優秀とされ、そのための便利なシステムが構築されていく世界を、私たちは生きている。ゆえにそのシステムを使いこなせない者は無能とされ、システムが故障したりシステムそのものが不便だったりすると不愉快になる。「便利でうまくいくシステムが結果的にもたらすカタストロフィ」は、出版業界においてはまさに取次流通システムそのものと言えるだろう。それともそのシステムが「時代遅れで不便だから」現状のカタストロフィが起きたのだろうか。いずれにせよ、そこにはバザーリアが発した「健康な者たちの社会」に対するアンチテーゼがある。

発注した本がすぐに届かない。それのなにが悪いのだろうか。発注していない本が届いた。だからどうしたというのか。入荷した本が傷んでいた。なにか問題でもあるのか。そんなことを思っている本屋はほとんどいないだろう。本がなかなか届かなければ不安になるし、不要な本が入荷したら困るし、本が傷んでいたら腹がたつ。そういう常識的な反応=健康な者の反応を疑ってみたらどうなるのだろうか。綺麗な本を素早く入手するのも良質な本を棚に並べるのもすべてはお客さんのためなのだから、そんなことは許せない。本当にそうだろうか。お客さんは常にそれを求めているのだろうか。求めているとして、その先にある世界はどのようなものになるのだろうか。本がすぐに届かないことがなにか重大な事象を引き起こしてしまう。誤配が引き起こす棚の予期せぬ変化を楽しむことができない。少し傷がついている程度の本が「不良品」となってしまう。それらはすべて、この世界の具合が悪いからなのではないか。

要するにイタリア人は、システムをそう簡単には信用しないし、基本的にシステムがうまくいかないことを前提にして生きているということなのである。システムがうまく機能している状態が当り前だとする人々にとっては、システムがうまく機能しないことは問題であるし、不愉快なことであるだろうが、システムがうまく機能しないことを当り前と考える人々にとっては、うまくいかないからこそ能動的に働きかける工夫の余地が生じるのだ。そこでは逆に、システムがうまく機能しているというのは不愉快なことであり、自己の能動性を封じられているように感じられる。つまり、「生きている」度合いが弱くなってしまうのである。(p.421)

同上

「私たちははたして本当に生きているのか」と問いかけてみよう。健康、優秀、当然といった定義を問い直そう。不健康、無能、異常といったラベルを貼られることへの不安はどこから来ているのか。つまり、誰が決めているのか。誰が決めるべきかはわからないが、少なくとも、システム=世界が決めるべきではないということはわかる。なぜならいま私たちは苦しんでいるから。

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アナーカ・フェミニストの高島鈴曰く、生存は抵抗である。その世界内で生きる者を例外なく搾取していく〈資本主義〉の中で生きるということは、まさしく生存=抵抗を体現している。搾取され続けていればいつか必ず殺される。だから抵抗せねば生きていけない。問題なのは、システム=環境そのものが正しくないがゆえに、抵抗しても殺されるという事態が生じていることにある。抵抗せねば搾取の果てに殺され、抵抗すれば「無能」「不健康」「不要」などのラベルが貼られ周縁化され、不遇の生ののちに野垂れ死ぬ(あるいは即座に抹消される)。資本主義が中心にある世界は、この袋小路にある。

資本主義の世界では、抵抗しなければ搾取され続け疲弊するし、抵抗しても「常識」だとか「普通」だとかに攻撃され疲弊する、と言い換えてもよい。ゆえに私たちはケアを欲する。しかし資本主義の世界であるがゆえに、そのケアの担い手として〈他者〉が設定され、搾取される。そして枯渇した〈他者〉の代わりを求め、捕捉する。その辿り着いた先が「AI」といったところだろうか。自然は奪い尽くした、人間も消費し尽くした。残っているのは無尽蔵に動かせるAIだけ(しかし実際にはAIを動かすために、奪い尽くしたはずの自然をさらに収奪している)。

ならば、どちらの「抵抗」を選ぶべきだろうか。そして、どのような「ケア」をすべきだろうか。資本主義システムを温存しながらその中で他者を搾取しながら、迫り来る死に対して「抵抗」するのか。資本主義システムに綻びを生じさせるために、傷つきながらも「抵抗」するのか。資本主義システムが生み出す機序に従ってなされる「ケア」で回復するのか。資本主義システムに抵抗する中で生じる「ケア」によって回復するのか。私はいずれも後者を選択したい。たとえば本が売れなくてもいい本屋とはどのようなものを考え、実践し、バカだとか現実逃避だとか罵られ傷つき、実際の生活でも困窮を極めながら、その中で生じる感動的で、しかし同時にひどく滑稽で、どうしてこんなことになってしまったのか、そこにいる誰ひとりとしてわからなかったであろう光景が幾度となく生まれる日々を。

抵抗に伴ってケアが必然的に生じるのならば、抵抗とケアがごちゃ混ぜになるシステムを想像/創造してしまえばいい。資本主義ではないなにかと一体化した〈私〉の集まりの中で生じたはずのあのマッサージは、抵抗とケアがごちゃ混ぜになったものでもあったはずだ。この世界に対して抵抗する者たちが、お互いにケアをする。おそらくそこには「ケアをする」という感覚すら希薄になっていくなにかがあるに違いない。やりたいからやる、という自発=アナーキーのシステムが作動する。そこに加わる者が増えれば増えるほど、抵抗=ケアの総量も増えていく。抵抗=ケアを〈外=他者〉に委託し搾取する必要性もなくなっていく。その先にある「now/here」(いま/ここ)ではない世界を、私は見たい。見れると思っている。

病者を治すのではなく、社会を治すのである。それも、精神科医が精神病院で病者を治すのではなく、社会が自らを治すのである。精神医療にたずさわる者は、「精神医療とは何か」「精神医学とは何か」と問い、社会から委ねられた自分たちの役割を明らかにすることで、社会が自己の矛盾と向き合い、社会が自らを治そうとするための突破口たらんとするのである。(p.120)

再掲

資本主義のシステムを中心に置いた「社会が自己の矛盾と向き合い、社会が自らを治そうとするための突破口たらんとする」ための抵抗=ケアが、あるいは自発=アナーキーが、この世界にはたくさんあるはずだ。残念ながら、急に世界は変わらない。だからこそ、簡単に死ぬわけにはいかない。切り離すことができない〈私〉と〈社会〉の関係性の中で、「具合が悪い」日々を送り続けてみよう。できるだけ長く。

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補足もしくは蛇足。

映画『急に具合が悪くなる』はとてもよきものでしたので、機会があればぜひ。ほかにもたくさん言及したいことがあるのだけど、それはまたの機会にでも(今後もことあるごとにこの作品のことを思い出す気がするし、実際に先日も『ユースフル・ゴースト』のとある場面を観たときに想起されていた)。懸念点としては上映時間が3時間16分と少し長いため、急に具合が悪くなる可能性がある人は映画館では観にくいことでしょうか。よい映画だから集中して観れちゃうのだけど、だからこそ終わった途端に急に具合が悪くなる可能性が……。いずれ配信でも観れるようになるはずなので、各々、急に具合が悪くなっても大丈夫な環境で観てください。

原作本、実はまだ読んでいません。映画を観てから読もうと思っていたのですが、映画がよすぎたために「この勢いで読んだら原作の濃度にやられてしまう」気がしてきて……映画はフィクションだけど、原作は本当のことだから、くらってしまうその強度がどれほどのものになるかわからない、つまり私はビビっている。

その代わりに読まれたのが『プシコ ナウティカ』だったわけですが、これが本当に素晴らしく……。税込6380円の学術書だからこれまた(違う意味で)ビビってはいたんですが、読み始めたら想像以上に読みやすく、映画を楽しめた人なら本書もちゃんと理解できると思います。精神医療とか看護とかの専門知識は不要だし、ところどころ人文系の専門知識が必要とされる箇所もあるけど、そういうときは映画のことを思い浮かべると「なんとなくこういうことかもしれん!」となるので大丈夫。あとは価格だけ……これはどうにもならんので、図書館も積極的に利用してください。資本主義に抵抗する本屋としての歩みはまだよちよち状態……。

たとえば雑誌の付録商法はだいぶ前から批判されてきているけど、最近主に独立系と呼ばれる書店と出版社で増えている「特典付きの書籍」「サイン本」も、本質は同じなのではないか。とかいろいろ考えていることはあるのでまたの機会に。

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