忘れていくものの記録261019〜1101
10月19日(月)
ゆっくり起き出して、ゆっくり動き出す。疲労困憊。外で昼ごはん。ポテトを貪りながら、最近のギャルはキラキラしてるけどギラギラしてないよね、欲望が足りない、といった話をした。ギラギラはある種の「異端」であり、外れ値でもある。それはいまのSNS社会では炎上や叩かれのリスクを伴い、それを避けるためにその濃度を下げ、キラキラにとどまっているのかもしれない。つまりキラキラは「みんなにウケるもの」で、結果としてそれは「みんなと同じ」になる。異物になれないということ。場違いな存在になれないということ。
私はそのまま志津へ。ひろこさんはランニング兼イオンでお買いものへ。志津はもう閉店間近の様相を呈していて、人の動きもそれに伴って変化している気配がある。今日から文具やCDなどが80%オフになっていて、それをどこかで聞きつけたらしい中古CD業者が段ボール20箱近く買い取ったとのことで、日野さんを含めた各スタッフがおおわらわ、閉店作業がまったく進んでいないご様子。本屋の閉店がノスタルジックに語られることへの違和感はこういうところにも現れ出てくる。どこかのお店の閉店は別のどこかのお店のビジネスチャンスでしかない、そういう側面もあるということ。
ほぼほぼ毎週日曜日に来店し、これ買っていきます、とっといてください、いついつに来ます、とだけ何度も言い残して帰っていくお客さんがいて、日曜日に勤務していたコロナ前には毎週のように顔を合わせていたのだけど、その人にはここ数年会っていない。今日は電話がかかってきて、同様の話を一方的にして切られる。閉店することは知っているのだろうか。あるいは理解しているのだろうか。理解したくない、ということはあるのだろうか。かれの心情を私は推し量ることしかできない。してはならない。
月曜夜にシフトが移動した春から、ほぼほぼ毎週ジャンプだけを買っていく人のレジを打っていた。レシートは置いて帰る。特に会話もしない。とにかくスピーディーにいなくなる。今日はレシートを持っていった。それ以外は変わらない。来週の月曜日にはこのお店は閉まっていて、ここでジャンプを買うのは今日が最後になる、からかもしれない。これもまた推量でしかないし、そこまでの権利しか私にはない。
日野さんは今日は早く帰り、すると浜松からフェイヴァリットブックスLの高林さんが来店した。相変わらず間の悪い日野さんである。そして高林さんは高林さんで、私がほかのお客さんから問い合わせを受けた本を探しているときに話しかけてくる間の悪さを発揮。なんか面白くなってしまって、その探している本をどこかで見ませんでした?と高林さんに訊いてしまったりもした。結局その本はすでに返品済みで(データ未反映で在庫あり表示になっていた)、なにもかも間が悪い事象となった。レジ打ちをするタイミングで高林さんの写真を撮り、日野さんに送信。
先月の志津ブックフェスで話をした大学生がきて、レジ打ちをする。いつも通り閉店作業をして、電車に乗って帰宅。やはり寂しさは特にない。最後の志津購入本として、結城正美『文学は地球を想像する』(岩波新書)を選択。エコクリティシズム。人間ではない(もしくは人間以上の)存在に語らせるということ、その範疇には当然死者も存在する。死んだ店も。志津店はなくならない。私が語らせる。就寝前にプルースト。
二週間が途方もなく長く感じられたのは私だけで、それはゲルマント夫人のことになると時間を分単位で数えていたからである。(p.262)
約10年の月日を私はどの単位で数えていたのだろうか。あとは営業最終日に顔を出すのと、撤収片付けの2日間。
10月20日(火)
草野球。ここのところ身体を動かせていないので、意識的に動いていく。守備と打撃は良好。投球は体力不足を露呈。帰宅してシャワーを浴びて、すでに就寝できる状態になってしまう。本を読み、寝落ちし、19時頃起床。もつ鍋を堪能し、アニメを見て、トリストラム・シャンディ。蝿を捕まえ、しかし殺さずに窓の外に逃す叔父トウビーが言う「この世の中にはおまえとおれを両方とも入れるだけの広さはたしかにあるはずだ」(p.216)というセリフを私はどこかで読んだことがある気がする。この本以外で。それにしてもこのセリフは美しすぎる。エコクリティシズムだ。就寝。充実。